駅まで3km 鎌倉歴史散歩11月

不動堂では来年の干支がお出迎え。はて猿の下の物体はなに?
不動堂では来年の干支がお出迎え。はて猿の下の物体はなに?

11月30日(月) 本年最終回の鎌倉歴史散歩に参加した。今回は大船からバスで鎌倉カントリー方面に向かい、今泉の白山神社、称名寺を経て散在ヶ池(鎌倉湖)へ。

右目不調と肋骨々折騒ぎで運動不足が祟ったのだろう称名寺本堂から不動堂までの135段の石段では息切れが激しかった。たいした距離は歩いていないのに帰宅後の深

鎌倉湖、紅葉にはまだ早い
鎌倉湖、紅葉にはまだ早い

夜2に回も足がつる騒ぎで我ながら情けない。

利き目が右から左へ変わった違和感もどうやらなくなってきたので、雪の便りも聞かれる昨今、脚力の低下を少しでも防ごうと翌日の病院行きには駅までの3kmを歩いて行った。アップダウンのある経路を選び所要時間28分はまあまあと一安心。

これを機会にできるだけ毎日歩こうと思っているのだが昨日は先輩3夫婦と食事会、今日は雨、またまた一日坊主にならないよう頑張ろう!

竹の不思議

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先日鎌倉の竹の寺で知られる報国寺を訪れたとき、講師の方から「竹の専門家」と紹介されたが碌な話も出来なくて申し訳ないことをしてしまった。特に竹の一番不思議な(と私が思っている)性質にまつわる話が出来なかったのは私としても残念だったので知っていることをメモしてみることにした。

竹(孟宗)はタケノコとして地表に現れたった2ヶ月で20メートルも伸びる。(タケノコは出てきたときすでに約60節の構造を持っている)
最も伸びの早い時期には一日に1メートルを越えa0960_003136_mて成長するが、以降は成長せず太さも太くならない。
一体全体この驚異的スピードの成長はどういうメカニズムで成し遂げられているんだろうか?
一般に植物は葉で光合成によって作られた糖類を栄養源として成長するものであるのにタケノコにはまだ葉がないのでこの栄養はどこから来るのだろうか?

答えは地下茎ある。夏から秋にかけて地下茎に蓄えられた栄養を貰って成長し、6月には栄養を使い果たして成長が止まり、その栄養a0960_003138_mを蓄えてきた周囲の親竹は葉を更新して夏からまた地下茎に栄養を送り始める。この地下茎のネットワークは竹林全体に広がっていると言われている。
60年とも120年とも言われる周期で竹が開花し種を付け竹林全体が枯れると言うのも竹林全体が一つの個体であると考えると理解できる。要するに竹の本体は巨大な地下茎のネットワークに在るといって過言ではなさそうだ。

竹はイネ目イネ科に分類されていて確かにイネに似ているところもあるが素人目には似て非P1000927なるものである。一本の竹の寿命は20年位という文献もあるが多分間違いで孟宗竹でせいぜい10年、7年目くらいでかなり茶色になって目に見えて弱って来る。5年生くらいで地下茎への栄養供給力も低下するので良いタケノコを取るには5年目の竹を切ると良いとされている。そのためには生えている竹の5分の1、すなわち20%を毎年伐採することになる。
我々が管理している竹林内には多分1000本位はあるから200本は切らねばならず平均年齢が70歳を越えた年寄りグループが果たしていつまで耐えられるだろうかこれも疑問の一つだ。 (久しぶりに朝から雨でテニスも庭仕事も出来ない、明日から出かける準備の合間にパソコンに向かった)

鎌倉歴史散歩 6月

P10009046月22日(月) 梅雨の合間で日差しはさほど強くないが蒸し暑い日になった。折からの紫陽花シーズンで長谷寺方面はすごく混雑しているようだが、我々の目指す鎌倉最古の寺「杉本寺」方面はさほど人出は多くない。

さてまたまた「文覚上人」の登場! 1953年公開のイーストマン・カラーによる大映第一回総天然色映画「地獄門」はまさに上人の前半生を描いたものだという説明があった。残念ながら映画は見ていないが(当時は高1で、洋画のミュージカルものに嵌っていた)、原作菊池寛、長谷川一夫、京マチ子主演、衣笠貞之助脚色監督と懐かしい名前が挙った。
屋敷跡というが現地はこの石碑だけである。
それにしてもたった18歳で人妻に懸想、結果として人を殺し出家。神護寺再建の金集めで時の法皇の錨を買い伊豆に島流しにされそこで頼朝に出会い、平家打倒をそそのかし、怒りをかって島流しにされた当の法皇から平家追討の院宣を得てくるなど常人には考えられない行動力の持ち主だったようだ。

P1000908

頼朝建立の勝長寿院跡(これも今は石碑のみ)を通って釈迦堂の切通しへ。

残念ながら崩落が激しく現在は通行止めになっていた。

 

 

P1000917アナゴ料理で有名な左可井の前を通って鎌倉最古の寺「杉本寺」へ。仁王門の先の苔むした階段は通れない。左側の階段を上がり本堂へ。ご本尊の三体の十一面観音は格子の奥に安置されているので殆ど見えないが、頼朝が寄進したといわれる前立ち観音、以前の住職が造ったという木彫の新十一面観音は間近に拝顔出きる。住職が彫ったとは、果たして本当なのか、本当ならどのような修行をしたのか知りたいなどと考えた。

 

P1000922竹の報国寺へ。
山門というには小ぶりな門をくぐって進むと立派な本堂と茅葺の鐘楼が現れる。

奥の竹林はなかなか見事なものでところどころに石灯籠があるのをみて、我々の竹林にも一つ欲しいなどと考えていたら、講師の先生から竹の専門家として紹介されてしまっP1000925た。年甲斐も無くどぎまぎしてお粗末な話しか出来ず我ながら情けなかった。
それにしても我々の基準(傘をさして間を通れるくらい隙間をあけて間伐)からするとかなり密生しているのだが、太さがそろっていて真っ直ぐに伸びているのは見事だ。多分かなり肥料なども入れているのではないだろうか。

旧華頂宮邸は月火は休館日。先月のお菓子屋と言いどうも月曜組みは不利だが仕方ない。それにしても昭和初期の公爵様はこのような洋風建築を立てられる財力を持っていたのだなあ、その後随分貧富の差はなくなったが、また昨今拡大しているなどと余分な思いにとらわれていた。

足利氏の寺稲荷山浄妙寺
鎌倉五山-建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺-の一つに数えられている名刹で本堂の屋根の柔らかな形が新鮮に見える。
このあたりの地名は浄明寺町、別に間違えたわけでなく同じ名前は恐れ多いとわざわざ違う字を充てたという。

本日はここで解散。蒸し暑さのせいか今日はいつもより疲れた感じでおとなしくバスで鎌倉駅に戻り帰宅。

 

鎌倉歴史散歩 2015年5月

P10008515月25日(月) 今月もバスで鎌倉駅東口から材木座方面に向かう。日差しは強くないが風がなく蒸し暑い。

まずは九品寺へ。
ここは新田義貞が自らが滅ぼした北条氏の霊を祀るために建立したといわれる寺で、山門と本堂の扁額は文字は新田義貞が書いた文字の写しとか。

補陀洛寺(ふだらくじ、別名竜巻寺)
P1000854九品寺を出て南西に行ったところに補陀洛時がある。角に頼朝公御祈願所の石柱が立っているだけで山門も無く寺には見えないたたずまいである。
こじんまりした本堂本陣にはご本尊の十一面観音を始め所狭しと数多くの文化財が並べられている。

なかでも文治3年(1185)の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の総大将平宗盛が掲げていた赤旗が印象に残る。源氏方の総大将は源義経、幼い安徳天皇の入水で終わる源平の戦いはこP1000872れまでは一つの物語に過ぎなかったが、にわかに眼前にビビッドに展開するまさに歴史ロマンを感じさせてもらった。

 

 

 

 

実相寺

実相寺
実相寺

補陀洛寺を出て見事な柴垣に沿って北に進みと実相寺がある。仇討ち物語で有名な曽我兄弟に討たれた工藤祐経の屋敷跡という。日本三大仇討ちに数えられるように単純な仇討ち物という認識だったが、実際はかなり複雑な人間関係があったようで、そもそもの発端は曽我兄弟の祖父の悪行にあったらしい。

 

五所神社
P1000879明治初年に二つの村が合併したとき、村内の五つの神社を三島社に合祀したもの。
こじんまりした境内にはいろいろな時代を思い起こされる庚申塔や、先月光明寺にあったと同じ弘長二年(1262)と刻まれた板碑があった。この神社にいるときに茨城県で震度5を観測した地震があった。屋外にいてたいした揺れは感じられなかったが、参加者の多くの携帯電話に一斉に緊急地震警報が入り大いに驚かされた。石段の隙間に咲く花を見つけスミレだと思って写真をとったが、調べて見ると図鑑には該当するものが無い。スミレの仲間は種類が多いが一体なんというはなだろう。

来迎寺
IMG_20150525_143902五所神社から少し歩くと三浦一族ゆかりの来迎寺がある。こじんまりした本堂だが、残念ながら今回は拝めなかったがご本尊の阿弥陀三尊像なかなか良い姿のもののようだ。

右手には2mほどの大きな2基の五輪塔が、裏手には家来の物といわれる小さな五輪塔が沢山置かれていた。

ここで本日の予定コースは終了解散となるが、例によって鎌倉までの道すがら向福寺、啓運寺、元鶴岡八幡宮、芥川龍之介旧居跡などの説明をしていただいた。

「大くに」
最後にこの先駅に行く途中に「大くに」という和菓子屋があり、安くて美味しいという説明を受け妻と探しながら歩いたが見つからないまま若宮大路に出てしまった。
妻は見逃したに違いないと不機嫌に、私は鎌倉から有楽町に出てスキー仲間とのシーズン終了反省会に行くので充分時間はあるのでもう一度戻ろうということにした。途中地元の人に聞きながら戻ってみたら大町四つ角に確かに店は有った。しかし無常にも毎週月曜日休業の札が下がっていた。

鎌倉歴史散歩 2015年4月

前夜は錦織圭選手のバルセロナ・オープン決勝戦を観戦。 準決勝での快刀乱麻を断つようなプレー振りが嘘のように押されっぱなしの試合展開で寝るに寝られず床についたのは深夜2時半を回っていた。

眠い目を擦りながら家を出て鎌倉駅東口に12時少し過ぎに到着。 軽く昼食をと思っていたのだが、すでに1班目はスタートしていて集合場所にもかなりの人がたむろしていたので直ぐに参加登録をした。 先着順の出発で講師の順番が決まっていないので毎回同じ講師の方につくのはなかなか難しい。

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バス停光明寺下車

今日の主体は材木座地区の名刹「天照山光明寺」、1243年創建というが殆どの伽藍は江戸時代に再興されたもののようだ。「光明寺前」でバスを降りると目の前が「総門」である。
総門は伽藍の中では一番古く江戸初期1620年代に立て直されたもので「勅願寺」の扁額や、門に取り付かれた菊と桐の紋章が天皇や将軍との係わり合いの深さを示している。

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巨大な三門

総門をくぐると大きな空間が広がっていて正面に大きな三門が見える。鎌倉最大というだけ有って間口16m高さ20mの大きな山門だ。両脇に仁王像は無いが、2階に釈迦三尊と四天王更に十六羅漢が祀られている。2階には以前は特定の日にしか上がれなかったようだが、今では20名(分)集まれば一人500円すなわち1万円で見学が可能だそうだ。まるで天守閣に上がるときのような急な階段を上がり2階に上がる。
江戸時代末期1847年再建というのだからP1000772170年近く経っているのにあまり木部にあまり傷みが無い、約50年経過の同じ木造の我が家も手入れさえしていけばまだまだ大丈夫などと妙なことを考えた。
釈迦三尊はともかく四天王、十六羅漢は極彩色でどうも居心地が悪い。2階からの眺望はさすがに素晴らしい。総門越しに見える材木座海岸、稲村ヶ崎の向こうに江ノ島がかすんで見える。

P1000793三門の先はこれまた大変大きな大殿(本堂)が向かって右に鐘楼がある。とても大きくて姿の良い鐘楼だ。大殿(本堂)は自由に見学が出来る。日頃信仰心はまったく無いほうだが、こういうところに来ると何故かご本尊の前に座ってみたくなる。日本人だけかと見ていると外人さんも同じ様にしていた。本堂右手には「三尊五祖の石庭といわれる枯山水が、左手には小堀遠州作庭と言われている庭園があるが、正直なところどちらもしっくりこなかった。なにか全体の寸法のバランスが悪いと思うのは私だけだろうか?

 

P1000805弘長2年(1262年)銘の石碑を過ぎ本堂裏手の山に登ると「かながわの景勝50選」に選ばれた絶景ポイントがある。景勝50選の石碑のあるあたりは木が生い茂っていてその手前に展望台が設置されていた。暖かい日で残念ながら富士山はかすんで見えなかったが、良く見れば長谷寺も見えるそうだ。

P1000807さらに先に進むと開祖良忠上人の墓、開基北条経時の墓がある。五輪塔、宝篋印塔、無縫塔など色々な形の墓石が並んでいる。

 

 

 

鎌倉市立第一中学校の脇を通って山を降りてくると光明寺の大パトロン内藤家の墓所に出る。まったく予備知識を持たないので巨大な宝篋印塔と灯篭、地蔵などが所狭しと並んでいる様をみてまずびっくり、さらにこれが内藤家という一族のものと聞いてまたびっくりした。行ったことは無いがまるで兵馬俑のようだ。一体どうやってこんなものが出来上がったのか知りたいものだ。

和賀江島
和賀江島

海岸線に出て和賀江島を見て飯島バス停に出て解散となる。バスは15分待ちだというので天気も良いので歩いて鎌倉駅に。駅のデリフランスで喉を潤して横須賀線に乗ったら妻がスカーフを忘れて来たという。たいしたものではないので諦めかけたが大船駅に着いたときに一応店に電話を入れた。対応に出た男性従業員が、見つかったので丁度今から帰るところなので大船まで持ってきてくれると言っているとの事。待つことしばし、若い気の良さそうな男性が届けてくれた。幸い乗ってきた電車に再び乗る事が出来て去っていく彼に最敬礼。終わりよければで気分の良い一日になった。

 

 

鎌倉歴史散歩2015年 3月

昨年一年間朝日旅行主催の鎌倉歴史散歩に参加してみたが、そもそも歴史に弱いのが急に鎌倉時代が俯瞰的に理解できるようになる訳はない。今年はどうしたものかと考えていたが、少なくとも月一回は夫婦揃って出かける機会が得られるだけでも良いかと考えて今年も参加することにした。

法性寺山門
法性寺山門

3月23日(月) 今年3回目の講座は昨23日彼岸の時期にふさわしくきりっと晴れた日差しの中、逗子駅からバスで久木5丁目下車、日蓮ゆかりの猿畠山(えんばくさん)法性寺へ。今日はここから横須賀線の名越(なごえ)トンネルの真上の切通しを通って長勝寺までのコースだ。

 

 

P1000645山門を過ぎると無粋な高いコンクリートの則面の向こうに急な階段が見える。舗装された回り道があるのに100段を越える階段を直登、息を切らして祖師堂に到着。

 

 

 

日蓮岩屋
日蓮岩屋

「松葉ヶ谷草庵」で念仏信者に襲われたとき日蓮はすでに3匹の白猿に導かれて祖師堂脇にある岩屋に隠れていたという。 この手の話は聞き流してしまえばそれまでだが、焼き討ちが真実で日蓮が助かったのも真実のようだから、やはり逃げる手引きをしてどこかにかくまった人達がいたのだろう。 日蓮に近い信者がというよりも、念仏信者の中でひそかに日蓮を慕う人達が、さらにうがって考えれば日蓮が放ったスパイ達がいたというほうが当たっているのではなどと説明を聞きながら考えた。

 

 

大切岸
大切岸

ここからて山王権現が鎮座する山頂を経「大切岸(おおきりぎし)」へ。
鎌倉防衛の防壁説が近年の発掘調査で石切り場の跡と判ったのは、歴史のロマンをやや損なう感じもするが、どのみちここで戦闘があったという記録も無いのであまり気にならなかった。この辺りではまだ果たして白猿はだれ?というのが心に残っていた。

少し戻って「まんだら堂やぐら群」に入る。ここは土日祝日月に限って公開されていyaguraるとのことである。我々月曜組は月曜休館のところが多く損をしたような気がしていたのでなにか嬉しい。150を越えるやぐら(横穴)が穿たれた崖の様はぺトラ遺跡の王族の墓所の小型版のような感じを受けた。

第1切通し
第1切通し

まんだら堂を出て左手に向かい「名越切通」へ。三浦半島への重要な陸路にしては随分狭いなと思っていたら、往時の路面は現在より60cmも低く道幅ももっと広くしっかりしたつくりだったようだ。 第1切通しを見て引き返し、横須賀線の名越トンネルの鎌倉側の入り口に向かって急な下り坂を降り、踏み切りを渡って長勝寺へ。

法華堂は室町時代末期の造営で県の重要文化財に指定されている。日蓮と四天王の銅像を見て解散となる。折角だから松葉ヶ谷の草庵と言われている妙法寺のほうを覗いてみたかったが、足も疲れたので鎌倉駅に向かう。

 

五間堂
五間堂

途中時間外にもかかわらず、上行寺の「左甚五郎作と伝えられる竜の彫刻」と別願寺の足利持氏を祭るという大きな石塔を案内していただいた。上行寺は癌封じの寺とかでなにやら怪しげな神仏混淆のような寺で「左甚五郎って本当?」という感じ。別願寺は一見寺とは思えない建物だった。石塔は確かに大きなものだ。彫ってある三本脚の鳥居のようなものは鳥居ではなく入り口を表しているようだ。

鎌倉歴史散歩 11月

12月1日(月) 鎌倉駅に着いた頃には朝からの雨が止み薄日が差してきた、長い傘を持ってきたのが悔やまれる。今日は今年の鎌倉歴史散歩最終回(11月分)である。 真夏の座学を含めて全10回のコースだが、3月に大腸がん摘出のため入院したのにもかかわらず内9回に参加できたことは色々幸運にも恵まれたが我ながらたいしたものだ思う。

P1000436鎌倉駅からバスでまずは菅原道真を祭る「荏柄天神社」へ。 天神前バス停から真っ直ぐ前方に伸びた鎌倉宮参道と荏柄天神への参道が交差しているのが珍しかった。
加賀百万石の前田家が道真の子孫を名乗って梅鉢を家紋にしたというだけに、神門や社殿は梅鉢紋で飾られている。家紋に詳しいわけではないが加賀梅鉢とはP1000435少し異なるデザインのように思えた。実は道真が梅鉢紋を使ったという史実はなく、かの有名な「東風吹かば・・・」の歌に因んで後世つけられたというのもまた歴史の面白さだ。社殿はこじんまりしたものだが神木の銀杏は、あの倒れてしまった鶴岡八幡宮の大銀杏と樹齢はほぼ同じというだけあってたいへん迫力がある。残念ながらもう少し黄葉が進めばというとP1000439ころだった。

 

 

 

 

 

P1000441境内にはあの少しなまめかしい河童の漫画で有名な清水崑の筆を収めた筆塚があり、裏面には川端康成揮毫の「かっぱ筆塚」の文字が彫られていた。

 

 

 

 

 

P1000444参道が交差したところまで戻り今度は「鎌倉宮(大塔宮)」への参堂を歩き出す。白い鳥居の上部だけ赤く塗られているのが珍しい。
私の浅い知識では護良親王より、楠木正成や新田義貞のほうがなじみがあるが、鎌倉時代末期から南北朝時代に至る歴史の中で重要な舞台廻しを勤めた護良親王が不幸にして讒言により父の後醍醐天皇によってこの社殿奥の岩牢に幽閉されていたという。実際にはこの岩牢ではなかったようだし、鎌倉宮自体が明治天皇の創建というのだから訳の分からない話だが、これも歴史のロマンと思って説明を聞いていた。

 

 

永福寺旧跡
永福寺旧跡

鎌倉宮を出て瑞泉寺に向かう道を少し外れて永福寺(ようふくじ)跡があり、現在遺構の修復が行われている。頼朝の建立によるものとされ平泉の中尊寺の二階大堂に似た壮大なものだったというが、無数の束(つか)石の集合した堂跡や当時は大きな池だった辺りを眺めていると往時の様が浮かんでくるようだった。海外の遺跡でも感じたことだが、あまり修復が過ぎると却って歴史を感じられなくなるので後は周辺整備くらいに止めて欲しいと思うのは私だけだろうか?

P1000460永福寺跡を出て瑞泉寺に向かって歩き出すと急に暗くなり大粒の雨が降り出した。先ほどの後悔は忘れて大きな傘を差して山門付近で説明を聞いているうちに陽が差してきて辺りがきらきら輝きだした。
本堂の釈迦如来像、先手観音像、夢窓国師像をわずかに開いた障子戸から覗くと折からの冬の低い夕日が欄間から真っ直ぐ差P1000461し込んでいて非常に良く見えた。大げさだがエジプトのアブシンベル神殿で丁度春分の日に居合わしたようなハッピーな感じがした。
ここは禅寺らしくこじんまりしたものだが、梅の木が多く梅の頃にまた訪れたいものだ。

 

 

 

 

護良親王の墓の由来碑 追手淵辺義博の太刀を食いちぎったという
護良親王の墓の由来碑
追手淵辺義博の太刀を食いちぎったという

この後護良親王の墓近くを通って鎌倉宮に戻りバスで鎌倉駅に戻り解散となる。
鎌倉歴史散歩も今年分はこれで終了、来年はどうするか迷っていたが来年はハイキング的なコースも多いというのでまた参加することにした。

あとがき
最近とみに根気がなくなってこれだけの記事を書くのに3日もかかってしまった。根気だけでなく直ぐに目が疲れてパソコンを使ってしばらくは焦点が合わない。
そろそろやめようかと思うがしばらくサボると時々お叱りを頂くのでもう一頑張りしてせめて今シーズンのスキー行の報告までは続けようと思っています。

鎌倉歴史散歩10月 鶴岡八幡宮へ

P100039510月27日 いよいよ鎌倉幕府の守護神「鶴岡八幡宮」へ。鎌倉駅に集合、若宮大路の中央に一段高くなっている段葛を通って三の鳥居へ。今は石積みの路肩を補強したり桜を植え替えたりする工事がまもなく始まるという。確かに大正時代に植えた桜はかなり傷んでいるし、路肩の玉石が崩れたりするようだから改修は必要なのだろうが、どのような改修方法がとられるのか、ネットで調べてもはっきりしないのは一寸気がかりだ。

P1000400太鼓橋を回って境内へ。源氏、平家、頼朝、義経と日本人のロマンを掻き立てられる鎌倉時代だが歴史的な位置づけという点で学校で習った日本史ではやや影が薄いと感じるのは私だけだろうか。 しかし境内中央の舞殿辺りで、頼朝に捕らえられた義経の愛人「静」が義経を想って舞い歌い頼朝の不興を買ったとき政子がとりなしたという言い伝えに往時の情景が目に浮かぶような心持にさせられた。

 

P1000408その後若宮、上宮、宝物殿、丸山稲荷社、今宮を巡って大銀杏へ。4年前の3月強風で倒れた樹齢の約800年の大銀杏だが、根元から何本かのひこばえが成長中。これが再びあの大銀杏のような巨木になったとき果たして人類は?などと考えてしまった。

政子が建立したと伝えられる頼朝を祭った白旗神社を通り、流鏑馬の行われる馬場で解散となる。

 

 

 

P1000426折から七五三詣、娘のときは兄嫁が衣装を貸してくれたは良いが、近くの大きな神社に行っても神主不在だったのを思い出した。

鎌倉歴史散歩9月

どうも我々が最高齢のようだが、なんといっても高齢の参加者がメイン、7月は暑さを避けて座学、8月はお休みだったので久しぶりの散歩だ。
P10002959月10日、鎌倉駅西口時計台広場に集合、線路沿いを北上して巽神社へ。神社としては床が低いので鳥居がなければ神社と思えないが縁起は9世紀初頭という。

さらに北上して八坂神社、寿福時へ。鎌倉五山第3位の名刹寿福時は頼朝の死後北条政子が創建したといわれ、政子、実朝の墓がある。墓は横穴式の「やぐら」に収められていて高浜虚子や大佛次郎などの墓もあった。

P1000344英勝寺は大田道灌や水戸のご老公こと徳川光圀ゆかりの尼寺で、尼僧の足元が見られないように下部が板で覆われた鐘楼が珍しい。

道路端の阿仏尼の墓を見て最後は海蔵寺へ行きここで解散。

帰路は若者と海外からの観光客で賑わう小町通を通って東口へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉歴史散歩6月

6月23日(月)今月は雨を覚悟していたのだが思いがけず良い天気になった。

P1000051江ノ電長谷駅目の前の「収玄庵」からスタート。本堂は小さいが東郷平八郎の書になるという大きな石碑が印象的だ。

鎌倉彫の工房「白日堂」を覗いて光則寺へ。

 

 

 

P1000054日蓮ゆかりの「光則寺」。弟子の日朗上人が幽閉されたという石牢や寺の縁起はともかく緑と花々に囲まれた境内はもういちどゆっくり訪ねたい。
境内には宮沢賢治の「雨にもマケズ」を刻んだ石碑があるが、これは賢治が法華経の心を説いたものだとして寺が立てたものという。久しぶりに全文を読んだが戦後「一日に玄米四合と・・・」というくだりにGHQが多すぎるといちゃもんをつけたというのは本当だろうか?

P1000061高徳院(鎌倉大仏)へ。月曜日だがさすがの人出だ。

大仏裏に与謝野晶子の詠んだ短歌の石碑がある。

鎌倉や 御仏なれど釈迦牟尼は
美男におわす 夏木立かな

この歌も当時識者から非難を浴びたというが、さらに「君死にたもうことなかれ」が近年なぜ教科書から削除されたのかという話は別途紹介することにする。

その後大仏トンネルの上をこえる大仏切通しを歩いて越えバスで藤沢に出て帰宅。